maruの徒然雑記帳


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終わる夢、そして夢の始まり






 その日はとてもいい天気だった。

 真冬のさなかとは思えないくらいに暖かくて、普段であれば真っ直ぐにサロンに向かい休憩をとるところだが、柔らかな日差しに誘われて自然と足は中庭へと向かっていた。


 青い空を見上げ、すみれは小さな吐息を漏らす。

 別に疲れているわけではない。

 新春の特別公演まで後わずかー稽古は最後の追い込みで白熱し、もちろん肉体的には疲れているだろうと思う。

 だが、今感じている心の重さはそれとは関係のないことだ。

 稽古は楽しい。

 今までにないくらい充実していると、自分でも思う。

 しかしその反面、心の奥底につきまとう言いようのない寂しさがあった。


 新春歌謡ショウを最後にすみれは花組女優を引退する。

 それはずいぶん前から決まっていたことだった。

 だから自分を納得させる時間も充分あったし、家の事情でどうにもならないことだと割り切ったつもりでいた。

 だが、その公演が数日後に迫りふと気がつくと、そのことが意外な重さで自分にのしかかってきているのをすみれははっきりと感じていた。


 いつまでも、この夢が終わらなければいいのにーすみれは思う。

 この帝劇での生活はいつだってふわふわした砂糖菓子のように幸せで、ほんの少し切ないーそんな夢を見ているようなものだった。

 大好きな人がいて、素直には言い出せないけど大切な仲間達がいて、その人達があきれたり、時には怒ったりもしながらそれでも自分を受け入れてくれることの幸福感。


 辛いこともあった。

 悲しいこともあった。


 時々はケンカして、ぶつかり合ったこともあったが、それでもこの場所は楽しい幸せな思いでいっぱいだった。

 できることならずっとここにいたい。離れたくない。

 終わりなんて来なければいいのにーだがそんなすみれの想いとは裏腹に終わりはもうすぐそこまで来ている。

 あと数日でここでの生活の全てが終わる。

 そしてもう二度と、自分がここで生活することはないのだ。


 すみれは再び重いため息をつく。

 青い空も優しい日差しも、今のすみれにはなんの慰めにもならなかった。  まるで元気のない足取りのすみれが立ち止まったのはそれから少し後のことー中庭の芝生に寝ころぶ一人の人を見つけたからだった。

 黒髪のつんつん頭のその人を認めてすみれは軽く目を見開く。


 「中尉?」


 小さくつぶやいて、彼のほうへと向かう。

 足音を忍ばせているわけでもないのに起きあがる様子がないのは、寝ているからだろうか。

 すぐそばにたちその顔をのぞき込むと、案の定気持ちよさそうな寝息を立てて眠っている。

 いろいろと疲れているのだろう。

 すぐそばにすみれがいるというのに大神は起きる気配すら見せない。

 その成人した男子のものとは思えないような可愛らしい寝顔に思わず微笑みを誘われつつ、何のきまぐれか、すみれはそのとなりにそっと寝ころんだ。


 かぎなれない芝生の匂いが鼻をくすぐる。

 頬に感じるちくちくとした草の感触も初めてのものだ。

 だが不思議と不快感はなかった。

 そうして普段では決してみることのできない至近距離から大神の顔を見つめ、すみれは自分の中にある思いを再確認する。

 どれだけ自分がこの男に思いを寄せているのかと言うことを。


 静かに、静かに呼吸を繰り返しながら、すみれは今までのことを思い起こす。

 出会い、ともに戦い、ともに過ごした日々ーそしてそこにはいつも大切な仲間達の姿があった。

 素直になれず、いつも憎まれ口をたたいてばかりいた。

 それでも彼女たちはすみれを見捨てず、ともに笑い、助け合い、共に生きてきた。

 最初は仲間なんてうっとおしいだけと、そんなふうに思っていた。

 その思いはいつから変化を見せたのだろう?

 それはきっとあのときー。


 そう、あの日、海軍出の一人の青年が帝劇にやってきた、あの瞬間から。

 あれからいろいろなことがあった。

 いくつもの死線を乗り越え、ともに過ごし、なんでもないはずの存在がいつの間にか掛け替えのないものに変わっていた。

 そんな人たちに、自分はもうじき別れを告げなければならない。


 不意に涙がこぼれそうになり、すみれはあわてて目を閉じた。

 泣きたくなんか無い。

 泣くのは、嫌いだった。


 どれくらいそうしていただろう。

 そうして目を閉じているといろいろな音がよく聞こえてくることにすみれは気がついた。

 空を渡る風の音。風に揺れる草のささやき。そして、誰より大切な人のかすかな寝息さえも。

 そうして時折混じる意味をなさない小さな寝言にくすくす笑いながら、すみれはいつの間にか心が穏やかになっている自分に気がついた。


 「これは、あなたの魔法ですの?中尉」


 つぶやいた声に答えはない。

 当たり前だ。大神はこれ以上ないくらいによく寝ている。

 すみれは微笑んだ。

 そして一生伝えるつもりの無かった言葉を唇に乗せる。


 「あなたが好きですわ、中尉。世界中の、誰よりも」


 もちろん答えは返らない。

 だがそれでいいのだ。どうせ伝えるつもりの無かった想いなのだから。

 ただ一度だけ声に出して言ってみたかったーそれだけのことにすぎないのだから。

 それなのに。

 なんだか妙に切なくなって、すみれは再びそっと瞼を閉ざす。

 そしてそのまま、ただ静かに大神の小さな寝息だけを聞いていた。


 それは泣きたくなるくらい幸せな時間。

 降り注ぐ日差しは冬のものとは思えないくらい優しく暖かで、忍び寄る睡魔の甘美な誘惑に抗しきれるわけもなくーゆっくりとすみれは眠りのそこに落ちていった。

 大神と二人きり。

 とびきり幸せな、そんな夢の中へと。



 「…みれ君…すみれ君」


 そんな大神の声にすみれまどろみの中から現実へと引き戻される。

 寝ぼけ眼で見返すと、大神がほっとしたように微笑んだ。


 「よかった。やっと起きたね」

 「…中尉?」

 「よく寝ていたからどうしようかと思ったんだけど、寒くなってきたし風邪を引いたら大変だと思って…」


 言われて身を起こすと、大神の言うとおり、太陽はすっかり西の空へ沈み、冷たい風が吹き始めていた。

 楽しい夢は、もう終わり…といったところですわねーそんなふうに思いながらすみれはくらくなり始めた空をぼんやりと見上げた。

 なぜだか無性に淋しかった。


 「すみれ君?大丈夫かい?」


 いつになくぼんやりとしたすみれの様子に不安を感じたのだろう。

 大神がそんなふうに問いかけてくる。


 (優しい人ー)


 ぼんやりした頭でそんな風に思う。

 あまりに優しくて錯覚してしまいそうになるくらい、大神はいつだって優しい。

 でもその優しさが自分だけのものでないことくらいすみれにもよく分かっていた。


 罪作りな男だと思う。

 でも仕方がない。それでも自分は彼が好きなのだから。


 大丈夫ですわー心の中の複雑な思いをみじんも感じさせずにすみれは微笑んだ。

 公演も間近なのに寝込んでなんかいられませんーそんなすみれの言葉に大神もそうだねと頷く。


 「大事な公演だものな。絶対に成功させよう。俺も、協力する」

 「そうですわね。花組トップスター、この神崎すみれの引退公演ですもの、成功させないわけにはいきませんわ」

 「…うん」


 そう答えた大神の声が少し寂しそうに響いた。

 とたんに胸の鼓動が早くなる。

 大神も少しは自分の引退を悲しく思ってくれているのだろうか。  そう思ったとたんに鼻の奥がつんとした。

 わき上がる涙にすみれはあわてて立ち上がる。

 ここのところ涙腺がゆるみっぱなしだ。いつの間にこんなに涙もろくなってしまったのだろう。

 こぼれそうになる涙を見られないうちにと足早に立ち去ろうとするすみれの背を大神の声が追う。


 「すみれ君」


 呼び止められた形ですみれは立ち止まる。

 大神は何も言わない。

 すみれが何かを言うのを待っているのだろうか。彼は真っ直ぐに、真摯にすみれを見つめていた。


 「−公演が終わったらもう二度と会うこともないでしょうね。もう、赤の他人同士に戻るんですもの」


 声が震えないようにそう言うのがやっとだった。

 後ろで大神が息をのむのが分かった。

 ほんの少しの沈黙。

 次いで伝わってくる大神の微笑む気配。


 「馬鹿だなぁ。何でそんなふうに思うんだい?」


 その言葉に思わずすみれは振り向き、泣き顔のまま大神をにらんだ。


 「だってそうでしょう?私は引退するんですから」


 大神は何とも言えない優しい微笑みを浮かべたまますみれのそばにくると、涙に濡れたその頬を手のひらでそっと拭う。

 そしてそのまま、のぞき込むようにしてすみれの顔を見つめた。


 「そうじゃないだろう?君は確かに花組の女優を引退するかも知れないけどー」


 言いながら,小さな子供にするようにすみれの頭をそっとなで、


 「俺達の仲間を引退するわけじゃぁないんだから」


 そう続けた。

 それから、いたずらっぽく付け加えるのも忘れない。

 そう簡単に、俺達と縁が切れると思ったら大間違いだよーと。


 なんて優しい言葉だろうと思った。我慢できずにすみれは顔を覆って泣き出してしまう。

 あわてたような大神の声もその涙を止める効果はない。

 嬉しかったのだ、とても。大神の言葉が。

 参ったなと大神は頭をかき、それから意を決したようにすみれの体をそっと腕の中に抱きしめた。

 そしてゆっくり、ゆっくりを言葉を紡ぐ。


 「たとえどんなに離れても君は俺達の大切な仲間だ。そのことだけは決して変わらない。どんなことがあってもね。

 君が困ったときは何を置いても助けにいく。君が苦しいときは君のそばに立とう。その苦しみをともに分かつために」


 突然大神の匂いに包まれて、驚きのあまり硬直して動けないすみれの上に大神の言葉が優しく降り積もる。

 胸が暖かくて、涙が頬をぬらしたけれど、すみれはもうそれを無理に止めようとはしなかった


 「苦しみも悲しみも、怒りも喜びも、みんなで分かち合おう。今までそうしてきたように、これからもずっと」

 「−臭いせりふですわね」


 顔を上げ、そう言った。みっともないくらいの涙声。

 だがすみれはそれを恥ずかしいとは思わなかった。

 一生懸命に伝えた言葉を「臭い」と言われて少なからず傷ついたのだろう。

 大神が情けなさそうな顔をする。

 その表情があまりにかわいくて、おかしくてーすみれは声を上げて笑った。

 つられたように大神も笑う。そして言った。


 「もう、大丈夫そうだね」


 すみれは不敵に笑う。

 いつものような、その笑顔で。


 「私を誰だとお思いですの?中尉。帝劇トップスター、神崎すみれですわよ。余計な心配は無用ですわ」


 そうしてくるりと大神に背を向け、すたすたと歩いていく。

 どこへ、とは大神は問わない。

 そんなことは分かり切ったことだからだ。大神は微笑み、小さくなっていく背中に向かって叫んだ。


 「すみれ君、頑張ろうな!!」


 すみれは答えない。だが言葉はちゃんと届いているはずだ。

 空を見上げ大きくのびをする。

 いい舞台にしたいと思った。今までで一番の、見る人の心にいつまでも残るようなそんな舞台にー。

 そう思ったらいても立ってもいられなくなり、大神はすみれの後を追うように劇場に向かって走り出す。

 親方に頼んで、俺も何かさせてもらおうーそう思いながら。



 幕が下りる。

 舞台が終わる。

 夢のような舞台ーすみれにとって最後の公演が、今終わろうとしていた。

 客席からは場内を揺るがすような拍手。

 それはいつまでも鳴りやむことなく響き、役者達が再び幕の下から現れるのを待っている。


 そして舞台の上もまた、充実感をともなった喧噪に包まれていた。

 みんなが笑いあい互いをたたえ合うーそんな空間で、すみれはただひとり一歩も動けずに立ちつくしていた。

 その肩を、後ろから誰かがぽんとたたく。

 反射的に振り向いたすみれの目に微笑むマリアの顔が映る。そして仲間達の姿が。


 「さぁ、すみれ。カーテンコールよ。行きましょう」

 「そうですよ、すみれさん。みんな、すみれさんを待ってるんですから」

 「そーだよぉ。はやく行こ、すみれ」


 みんな笑っている。

 すみれも微笑みを浮かべようとしてそれができないことに気がついた。

 笑うどころか、意志に反して目は潤み、今にも泣き出してしまいそうだ。

 そんなすみれの様子にめざとく気づいたカンナが、大きな手のひらですみれの頭をぐしゃっとかき回す。


 「ちょっ!!カンナさん、何をなさいますの」


 泣きそうになっていたのも忘れて悲鳴を上げるすみれにカンナがにやりと笑った。


 「おっ、いいねぇ。その調子だ。やっぱ、お前はそうじゃねぇとな」

 「本当にデリカシーのないひとですわね。最後くらいおとなしくしていられませんの?全く、これだから単細胞のお馬鹿さんは困りますわ」

 「言うじゃねぇか。目をうるうるさせて今にも泣き出しそうだったのはどこのどいつだ?」

 「カンナさん!!あなた、私にケンカを売るつもりですの!?」

 「だったらどうする?」


 唇の端をあげ、カンナがにぃっと笑う。

 いたずらっ子のような笑い顔。

 そんなカンナの笑顔が、すみれは決して嫌いではなかった。


 「−望むところですわ」


 答えてすみれも不敵に笑った、そのときだった。


 「待ちなさい、二人とも」


 売り言葉に買い言葉、一触即発の二人の間にマリアが割ってはいる。


 「ケンカはなしよ。今日くらい、おとなしくしてなさい。分かった?カンナ」


 鋭い眼差しにさらされて、カンナが不承不承頷く。そしてその目は次にすみれを見た。


 「いいわね、すみれ」

 「分かりましたわ」


 肩をすくめ、頷いた。

 いつものようなやりとりがただ何とも言えずに嬉しかった。

 それに元々そんなに頭に来ていた訳ではないのだ。

 ただいつものようにほんの少しじゃれ合ってみたかったーそれだけのことだ。

 もうこうして、カンナと憎まれ口をたたき合うこともないだろうから。

 そう思うと今のまるで変わりばえのないやりとりも掛け替えのないもののように思えた。


 「まっ、しゃぁねぇか。んじゃ、行こうぜ、すみれ。この決着はまた今度な」


 からっとしたカンナの声に、すみれは驚いて顔を上げた。

 もうすでに舞台に向かって歩き出したカンナの背を見つめながら今の言葉を反芻する。

 カンナは言ったのだ。また今度、と。


 「そうやで。ケンカなんかいつだってできるんやから」


 今度は紅蘭がそう言った。

 それを聞いたすみれは泣きたいような笑いたいような気持ちで、泣き笑いのような笑顔を浮かべる。

 嬉しかったのだ。これで終わりじゃないいんだと感じさせてくれる仲間の言葉が本当に、心から嬉しかった。

 そんな思いの中ですみれは、前をゆく仲間達の背中にそっとその言葉をささやく。

 ずっとずっと言えなかった言葉。いつも心に片隅に隠し続けていた、その言葉を。


 「私、みなさんのことが大好きですわ。本当に」


 誰にも聞こえないように言ったつもりだった。

 それでも、そのかすかな声を聞きとめてレニが振り向いた。


 「なに?すみれ」


 そんなレニの声に、みんなもつられて振り向く。

 みんな、もの問いたげなまなざしで、じっとすみれの言葉を待っている。

 答えずに、すみれは仲間達、一人一人の顔を見る。

 どんなに長く離れていても忘れてしまうことがないように、しっかりと瞼に焼き付けるようにしながら。


 「なんなんですかー?言いたいことがあるなら早く言うがいいでーす」

 「なんでもないですわ」


 織姫の声に答え、笑いながら仲間達の間を駆け抜ける。

 そしてそのまま光にあふれる舞台へと駆けていった。

 終わるためではなく始まるため。

 新しい第一歩を踏み出すために。

 すみれは思う。これで終わりではないのだと。

 全てはここから始まるのだ。これから生きる新しい世界も、これから築いていく仲間達との新しい関係もー全てはここから、この瞬間から始まる。

 まばゆいばかりのスポットライトのなかですみれは顔を上げ、まっすぐに立った。

 幕が、上がる。

 すみれの心の中で、開幕のベルが高らかに鳴り響いていた。






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