maruの徒然雑記帳


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花の名前〜12〜






 ボルシチが食べたいー彼の口からその言葉を聞いたのは、決戦前夜のことだった。

 ユーリー=ミハイル・ニコラーエビッチ

 彼はマリアの人生に劇的な変化を与えた人物であった。


 よく、笑う男だった。

 正義感が強く、男気があり、明るく、優しい心根のその男は誰からも慕われ、頼りにされていた。

 はじめはただのお節介な男としか思わなかった。

 目障りだとしか感じていなかった彼を、特別なものとして意識し始めたのはいつのことだったかー今となっては思い出すこともできない。

 彼はまるで空気のように自然に、さりげなく、いつの間にかマリアの心の中に入り込んでいた。

 同じものを目指し、共に戦い、過ごすうちに、彼は彼女の中で消すことのできない大きな存在へと変わっていったのだった。


 その夜ー運命の日の前夜。

 眠れずに、野営地の見回りをしていたマリアはたき火の前に座る彼の姿に気がついた。

 もう、軽く深夜を回っている。

 彼も眠れないのかーそんなことを思いながら後ろから近づいていくと、気配に気がついたのか振り返り、そこにマリアを見つけて彼はにっこりと笑った。

 それはいつもと同じ、マリアを落ち着かなくさせるーそんな笑顔だった。

 一瞬、踵を返して逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 だがマリアはそれを行動に移すことなく、顔に出すこともせずにそのまま進んで彼の隣に腰を下ろした。


 「眠れないのか?」


 彼のそんな問いかけに、それはあなたの方でしょうと返すと、


 「違いない」


 そう言って彼が笑う。

 その笑い顔に再び胸の高鳴りを感じ、マリアは横目でそっと彼の顔を見上げた。

 それに気付いた彼が目を優しく細めてマリアを見る。

 その眼差しに思わず頬を染めたマリアは、目の前にある炎へと目を移した。その火の赤さが頬の紅さを隠してくれればいいと、そんなふうに思いながら。


 「明日の戦いが気になるのか?」

 「……明日の戦いはきっと今までで一番激しいものとなるでしょうから」


 気にならない方がおかしいと、自分を見上げるマリアの素直な瞳と出会い、彼はまた少し笑った。

 柔らかな金髪に大きな手の平を乗せ、普通はそうなんだろうなーと、そう言いながら。

 普通はーその言葉を聞きとがめて、マリアが怪訝そうな顔をする。


 「あなたは違うんですか?」

 「違う訳じゃあ、ないけどな」


 そう言ってその面に苦笑を浮かべる。そしてそのままマリアの耳元に唇を寄せ、内緒話をするようにそっとささやいた。

 実は、腹が空いて眠れないーと。

 予想もしていなかった答えに不意をつかれ、唖然として彼を見上げてしまう。

 そんなマリアの表情に彼は照れくさそうに頭に手をやった。とたんにグーッと彼の腹の虫が大きな音をたてて騒ぎだした。

 堪えきれずに吹き出してしまうマリア。

 その横で、彼もまた、目の淵を紅くして笑った。

 それはこれから始まる戦闘など感じさせないくらい穏やかで、優しい時間。二人は静かに目の前の炎を見つめていた。

 やがてー。東の空がうっすらと白みだしたのを見て、マリアは立ち上がる。

 こちらを見上げる彼に微笑み、


 「もうすぐ朝です。少し休んでおきます」


 そう告げた。


 「そうか…」


 彼もマリアに微笑んだ。その瞳を見返して、あなたも少し眠ってくださいーそう言うマリアに、眠れるかな?−と渋い顔で返す彼。

 空腹を訴える腹に手を当てたまま、何とも情けない顔をしている。

 そんな彼に、マリアは言った。


 「戦いが終われば、食料も手に入ります。そうしたら、あなたの好きなものを何でも作ってあげますよ。だから、それまでの我慢です」

 「……そうだな。後もう少しの辛抱だ。マリアの料理を楽しみに頑張るか」


 そう言って、彼もまた立ち上がった。

 うーんと、大きくのびをした彼に、何か食べたいものはあるのか尋ねてみる。


 「……マリアの作った、ボルシチが食いたい」


 迷うことなく、照れもせず、真っ直ぐな眼差しで告げられた言葉に、マリアは白い頬を紅に染めて、顔をそらせた。


 「−物好きですね」


 並んで歩きながら照れ隠しにそう言うと、彼は再びあの優しい眼差しをマリアに向けた。


 「そうか?マリアの料理は世界一うまいと思うぞ」


 笑いながら平気でそんなことを口にする。

 マリアはさらに顔を紅くして上目遣いに彼をにらんだが、それも長くは続かず、最後には「仕方ないですね…」と嘆息した。

 いつだってマリアは彼にかなわない。

 そのことは自分でもよく自覚していることなのだから。

 分かれ道。

 彼は左へ、マリアは右へ。

 それぞれに割り当てられた天幕へと戻るため、二人は別れて歩き出す。

 しばらくそうして歩いた後、不意に彼が振り向いてマリアを呼んだ。


 「マリアー」


 立ち止まり、彼を顧みたマリアは、自分を見つめる真剣な眼差しに目を見開いた。


 「隊長?」


 問いかけるような、そんなマリアの声に、彼は口を開きかけーそれから思い直したようにその口元に苦笑を刻んだ。


 「いや。なんでもない。焦って言うことでもないしな。この戦いが終われば、いくらだって時間はあるさ…」

 「…?」


 訳も分からず首を傾げるマリアに、彼は柔らかな笑みを向ける。


 「お休み、マリア」


 そう言って背を向けた彼を、マリアは瞬きもせずに見送った。

 なぜか、理由もなく胸が騒いだ。

 そうして彼の背が見えなくなるまで見送った後、マリアもまた自分の天幕へと向かう。

 彼が何を言いかけたのかー気になりはしたが、また別の機会に聞き出すこともできるだろうと、自らを納得させて。

 それがかなわぬことになるとも知らないままー

 それは、マリアと彼との最後の夜の記憶ー見上げた空に無数の星の散る、美しい夜のことだった。






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