maruの徒然雑記帳
龍は暁に啼く
第一章 第二話
風が吹いた。
草が揺れ、草と草が触れ合う音を響かせる。
吹き上げられた青臭い匂いを鼻腔に吸い込み―次の瞬間、小さな手が腰の短刀を引き抜いた。
油断なく、正面をにらむ瞳は左右色違い。
太陽の輝きをそのまま封じ込めたような黄金の左目と、夜の闇を連想させる濃紺の右目。
金色のたてがみが風にゆれ、短刀を油断なく構えるその姿は、まるで一匹の小さな獣のようであった。
不意に目の前の草むらが割れた。
咆哮と共に、大きな獣が飛び出してくる。
襲撃を冷静にかわして、獣の後方に回り込み、その大きな体を観察する。
金色の毛皮に黒の縞模様が入った体……虎に良く似ているが、長く伸びた二本の犬歯がその獣の名を浮かび上がらせる。
俗に、ヴィエナス・タイガーと呼ばれる、この草原でも1,2を争う凶暴な肉食獣だ。
食物連鎖のトップに位置するこの獣は、恐れを知らぬかのように、小さな獲物と対峙する。
「……まだ、若い固体だな」
つぶやくような、幼い声が響く。
その声に反応するようにのどの奥でうなり声を上げながら、獣は少しずつ距離を縮めてくる。
確かにまだ若い。二本の犬歯も、成獣の牙の長さには足りていないのが見て取れる。
「出来れば、傷つけたくないけど……」
間合いを取りながら、困ったように眉根を寄せる。
傷つけたくはないが、それが難しいことも良く分かっていた。
特に若い固体は、血気盛んで恐れを知らない。
脅かしたくらいで逃げ出してくれるほど、甘い相手ではないだろう。
短剣の剣先を、獣へと向けた。
死にたくなければ、やるしかない。それが、この草原の原則だ。
「足……はだめか。動きが鈍くなると、他のやつらに狙われる。仕方ない。鼻面を少し削って脅かすか。それであきらめてくれればいいんだけどな。」
低くつぶやき、短刀の切っ先を地に向けた。
体の力を抜き、わざと隙を作って獣を誘う。
その隙を逃すことなく、獣の四肢が力強く地を蹴った。
それとほぼ同時、草を踏みしめ、駆け出そうとしたその時、猛々しい咆哮と共に、横の草むらから一頭の美しい獣が飛び出してきた。
「……ロウ!!」
銀色の毛皮に包まれた、並外れて大きな体躯のオオカミは、主人を守るように立ちふさがると、黄金の瞳で敵を睨みつけた。
とたんに、それまで威勢が良かったヴィエナス・タイガーの腰が引ける。
若い獣は、明らかに銀のオオカミに怯えていた。
のどの奥で低いうなり声を上げながら、ロウが足を踏み出すと、それに押されるように若い獣が後ずさりをし……不意にぱっと身を翻すと、草原の草の中に消えていった。
拍子抜けしたように獣がいなくなった場所を眺め、小さく息をつく。
負ける気はなかった……が、やはり緊張はしていたのだ。
肺の中にたまっていた空気を今度は大きく吐き出し、背中の籠を担ぎなおす。
籠はまだ半分も埋まっていない。
今日の仕事はまだまだこれからだった。仕事再開とばかりにかがみこんだ雷砂の背後から、その声は響いてきた。
「流石はロウだな。もうすっかりこの草原を自分の縄張りにしてしまったようだ」
凛とした響きを持った、高すぎも低すぎもしない、耳に心地いい声。
それは雷砂の耳によくなじんだものだ。
「シンファ……見ていたなら、間に入ってくれれば良かったのに」
ぼやくように言いながら振り向くと、そこにはいつの間に現れたのか、一人の女性が立っていた。
声が聞こえるその瞬間まで、何の気配も感じなかったというのに。
黒い双眸を細め、シンファは養い子の傍に歩み寄る。
風向きが変わり、彼女の長い漆黒の髪を揺らし、芳しい甘い香りを雷砂の元へと運んだ。
「子育ては甘やかすだけでは駄目だというぞ?それに、たとえロウが間に入らなくても、お前なら何とかできただろう?雷砂」
手を伸ばし、金色の髪の毛を乱暴にかき混ぜる。
「その為にわざわざ風読みをして風下から?オレを驚かせようって魂胆だったんだろうけど……まったく、子供じゃあるまいし」
くすぐったそうに首をすくめながら、少しあきれたように言葉を返す。
そして、頭二つ分は優に上にある養い親の顔を見上げた。
草原を渡るにふさわしいとは決していえない軽装に身を包み、腰には一振りの剣を佩いている。
だが、何の気負いも無く立つその立ち姿に隙は無く、女性でありながらも歴戦の戦士を思わせた。
彼女は漆黒の瞳を優しく細めて問いかける。
「今日もいつもの日課か?」
「うん。今日は泉の方に足を伸ばそうかと思っているんだ」
「泉か……。今日はラグディンガの群れを見かけたから気をつけたほうがいい。仔が加わっていたから、気が立っているだろう。
体は小さくとも猛獣だ。一対一ならいいが、集団でかかってこられると厄介だぞ。泉にも現れるかもしれない」
「ありがとう。気をつける。そういえば、今日は何か用事でも?」
「ん……?ああ、そうだった。特に用事というわけではないが、しばらくこの辺りを留守にするから、そのことを伝えようと思ってな」
「部族の用事?」
「まぁ、そんなところだ」
雷砂の問いかけに頷く。
「叔父上の体調が優れなくてな。代わりに部族会に行かねばならん。面倒な話だが、叔父上の身内は私しかいないからな。ま、仕方なかろう」
肩をすくめ、心底面倒くさそうな様子の養い親を、笑って見上げた。
まだ若く、女性の身ではあったが、彼女はこの草原の支配者、獣人族の一部族の若長ともいえる立場にあった。
「まだ寝ていると思って、先に巣穴をのぞいたんだが……」
「家にも来てくれたの?ごめん。今日はなんだか早く目が覚めて、日が昇るのと同じくらいに草原に出ていたんだ」
「……なにか、あったか?」
草の上に膝を落とし、心配そうに問いかける。
剣を握りなれた少し硬い指先が雷砂の頬にそっと触れ、優しいまなざしがまっすぐに目を覗き込んでくる。
心配は無いと微笑んでみせたものの、そんなことで誤魔化されてくれる訳も無く、
「少し、顔色が悪いな」
と、形のいい眉をしかめた養い親に、正直に話せと軽くにらまれ、思わず苦笑が漏れた。
「大した事じゃない。ちょっと夢見が悪かっただけだ。シンファが心配するようなことは何もないよ」
「……いつもの、夢か?」
問いかけに、頷きで答えを返す。
吐息を漏らし立ち上がった養い親を見上げて、大丈夫だよと微笑んでみせた。それでも彼女は心配そうに雷砂を見つめる。
「……もう5年だ」
「……」
「お前が私の前に現れてからもう5年もたつのに、悪夢はまだお前を苛んでいる。私には、何もしてやることが出来ない」
「シンファ……」
「情けない限りだ。私には何の手助けも出来ない」
「違うよ、シンファ。それは違う。シンファはいつも、オレを助けてくれるじゃないか」
握り締められたシンファの両のこぶしを小さな手で包むように握った。
落ち込むシンファを見るのは辛かった。情けないなんて、思ったことも無い。
あるのはただ、胸にしまいきれないほどの感謝の思いと、溢れんばかりの愛情だけ。
5年前、ロウと二人、この世界に放り出された雷砂を拾って、何の見返りも求めずに育ててくれた。
こちらの言葉も話せず、意思の疎通も難しい面倒な子供を愛しんでくれた。
話す言葉を教え、生きる術を教え……愛情を教えてくれた。
それがどんなに大変なことか―それを理解できないほど、もう幼くはない。
「色々な事を教えてくれた。何の役にもたたないオレを好きだって……大切なんだってそう言ってくれた」
シンファと過ごした5年間……数え切れない程の思い出がある。
そのどの瞬間を切り取っても、幸せな気持ちしか思い出せない。
5歳の時に母を亡くし、もう二度と手に入らないはずだったものを、シンファは惜しみなく与えてくれた。
人として、親として、友人として。
「オレはシンファが大好きだよ。死んだ母さんと同じくらい、大切な人だって思ってる。
夢のことは、シンファが気にすることなんて無いんだ。オレが、自分で解決しなきゃいけないことだから」
きゅっと唇を引き結び、うつむいた雷砂の頭を見ながら、シンファは優しく目を細めた。
その姿が、初めて出会った頃の雷砂と重なる。
中々懐こうとしない、はっきりいってあまり可愛げがあるとはいえない子供だった。
声をかけてもただ俯いて、友であるオオカミの毛皮の陰にかくれてしまう。
見捨ててしまおうかと、こみ上げる感情のままに何度か思ったこともあった。
近くの村に預けて、同じ種族に任せればいい―と。
だが、なぜかそうすることが出来なかったのだ。
優しさからでも、特別な愛情からでもなかった。
なんとなく、ただなんとなく、妙に頑なで可愛げの無い子供に興味があった。
だから、結局手放さずにここまできてしまった。
それで良かったのだと思う。
あの時、遠慮がちにすがる小さな手を振り払い手放してしまっていたら、こんなにも誰かを愛しいと思うことすら知らないでいたことだろう。
分かり辛くはあるが、だが確かに向けられたその愛情を感じる幸せを、知ることも出来なかった。
五年という、決して短くはない歳月が過ぎ、昔よりはるかに分かりやすくなった不器用な愛情を見せられて、愛しい思いがこみ上げる。
その気持ちに抗しきれずに、衝動的にその細い体を抱きあげていた。
「うわっっ」
予期せぬことにうろたえた声を上げ、年相応の子供の顔に戻った養い子を、ありったけの愛情を込めて抱きしめる。
血のつながりもない、種族も違う、ただの他人だと、部族の仲間達から言われ続けてきた。
確かにその通りだ。雷砂とシンファの間に血のつながりはなく、種族も違う。
だが、ただの他人かと問われて頷けるほど、浅い関係ではない。少なくともシンファの方はそう思っている。
雷砂もそう思ってくれているはず―そう思ってはいたが、確信は持てないでいた。
何しろ、甘えるのが極端に下手なのだ。感情を素直に見せるのも上手ではない。
シンファとしてはもっと大いに甘えて欲しいと思っているのに、雷砂は妙に遠慮してなんでも自分でやってしまう。
実は、雷砂にとって自分はあまり必要な存在ではないのではないかと、少し……いや、かなり不安に思っていたりもした。
しかし、今、二人の気持ちは同じなのだということを、雷砂の言葉が証明してくれた。
「シンファっ!!」
照れて怒ったような雷砂の声。
まだまだ子供だな―シンファは思う。
どんなに大人ぶっていても、並の大人も顔負けの知力と行動力を持っていても―まだほんの子供なのだ。
もう少しこのままでいてほしいと思うのは、大人のわがままだろうか。
きっとそうなのだろう。
だが、もしそうだとしても、シンファは今、大いにわがままを言いたい気分だった。
「あまり急いで大人になってくれるなよ?」
そんな言葉が口をついて出る。
「シンファ?」
「もう少し、子供のままでいろ。私はお前をもっと甘やかしたい。
我儘も言ってもらいたいし、その我儘を聞いてやりたい。大人になんか、いつだってなれる。だが、過ぎた子供の時間は取り戻せないんだぞ?」
もっと甘えてもいいのだと、黒い双眸が養い子を見つめる。もっと甘えてほしいのだと。
だが、分かっていても、中々うまく甘えられるものでもない。
自分は十分に甘やかしてもらっているという意識もある。
これ以上、甘やかしてもらっては困るという思いも、どこかにある。
シンファが大好きだった。
けれど、いつまでも彼女の世話になっているわけにもいかない。
お互いがお互いをどんなに思いあっていても、所詮血のつながりはなく、自分の存在がいつ彼女の負担になるか分からない。
そんなことを少しでも考えたと知られたら、優しい養い親はきっととても怒るのだろうけど。
雷砂は、少し困ったように笑って養い親の顔を見る。
シンファもまた、真剣な表情で雷砂を見ていたが、不意にその表情を緩めた。
「まぁ、いい。私がなんと言おうとも、お前はお前らしく生きるだろうし、そうする権利もある。
親というものはつまらないな。結局、見守ることしか出来ないんだ」
ストンと草の上に小さな体が下ろされる。
「シンファ……」
見上げてくる養い子の色違いの瞳を覗き込み、柔らかな金髪をそっと撫でた。
「すまんな。大人のたわごとだ。お前はお前らしく、生きてくれればいい。ただ、私の言葉も頭の片隅に置いておいてくれると嬉しいがな」
「……うん」
頷く雷砂に、シンファはにっこりと微笑んでその細い肩に手を置き、
「さ、薬草集めに行くんだったな。私も少し付き合おう」
促すようにゆっくりと歩き出した。
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