maruの徒然雑記帳


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花の名前〜8〜






 裏口の方で何か物音が聞こえたような気がした。

 それは普通であれば聞き逃してしまうほどの、そんなかすかな音だ。

 だが、彼女は敏感にそれを察知し、判断を仰ぐようにカウンターの向こうにいるマスターに視線を向けた。

 彼もまたその音に気付いていたようで、彼女に向かって素早いうなずきを一つ返す。

 それは、彼女に対するGOサインだ。彼女は即座に行動を開始した。

 音もなく立ち上がり、滑るような足取りで裏口へと向かう。

 まあ、行って確かめたところで、大した事実が分かるわけでもないだろうが。

 たぶん、野良猫がゴミをあさるうちに、その山を崩してしまったーそんなところだろう。


 だが、用心に越したことはない。

 用心を怠り、慢心した先にあるものーそれはさけられようのない死。

 この世界では、ほんの少しの油断が死を招く。

 死にたくないのならーこの世界でのし上がっていきたいのであれば、注意深く、どんな些細なことにでも警戒心を抱きつつ生きるしかない。

 ここはそう言う世界だった。


 銃に手をかけたまま、注意深く外の様子を窺う。

 すぐ近くに人の気配はない。

 彼女はゆっくりと店の外に出た。

 周囲を見回し、彼女は不意にその目を見張った。

 ゴミ置き場に誰かが居る。

 もちろん猫などではない。それは紛れもない人間だった。正確には人間の足、だ。

 二本の足が無造作に投げ出されている。

 ぴくりとも動かないその両足を見て、ただ酔いつぶれて眠っているだけか、それとも死んでいるのかを離れた場所から判別することは難しい。

 彼女は慎重な足取りでその足の方へと近づく。ゴミの据えた匂いの中にかすかではあるが血の匂いが感じられた。


 ー死んでいるのか?


 その足の傍らに立ち、彼女は無言のままにその人物を見下ろした。

 その男は眠っているようだった。

 全身に大小の怪我をしているようだが、死に至るほどのものではないらしい。

 規則正しく上下する胸が、その事実を伝えていた。

 見た感じ、まだ若い男のようである。眠るその顔が妙に幼く見えた。

 彼は見事な黒髪をしていた。

 一瞬どきりとするが、たぶん中国人だろうと思い直す。

 この辺りで中国人を見かけることはよくあることであったから。

 それにそう思う方が、遠い島国の人間がここにいると考えるよりも遙かに現実的だった。


 『おい、しっかりしろ!』


 なぜか放っておくことができずに、そう声をかける。

 その声に答えるように青年ー大神はわずかに身じろぎをし、目を開けると、髪と同じ黒い瞳で少女を見上げた。

 その少女は大神のよく知る人物だった。

 まだ頭が覚醒していないのか、彼女の名前がどうしても出てこない。

 それは何よりも愛しい、そんな名前であるはずなのに。


 『ーどうした?大丈夫か?』


 自分を見上げたまま、一言も発しない大神の様子に不安を感じたのか、彼女が再び声をかける。

 その言葉はもちろん英語だ。大神は目を見開き、それからかすかに首を傾げる。

 彼女はなぜ、いつものように日本語を使わないのかーと。

 そんなことを思った瞬間、不意に彼女の名前が頭に浮かんだ。


 「良かった。やっと思い出せたよ、君の名前を…」


 独り言のようにつぶやき、微笑んだ。

 そんな大神の言葉を聞いて、今度は少女の方がその面を驚愕に凍り付かせる。

 聞き慣れない異国の言葉ー。

 しかしそれは少女にとって決してなじみ無い言葉ではなかったのだ。

 その不思議な響きを持つ言語は彼女のもう一つもふるさとのもの。亡き母の生まれた国、日本の言葉だった。

 なぜ?−その言葉だけが頭の中をぐるぐる回っていた。

 しかしその驚きも、次に発せられた大神の言葉でさらに大きなものへと変わることとなる。


 「でも、良かった。君が居てくれればもう安心だね、マリア…」


 少女ーマリア・タチバナは大きく目を見開いた。驚きのあまり声も出ない。

 自分はこの青年と会ったことはないはずだった。

 マリアの知る日本人は、亡き母一人だけのはず。

 それなのになぜ、この行き倒れの日本人は自分の名を知っているのだろうー?

 そのことを問いかけようとして、再び彼の方へと視線を戻したマリアは、それがかなわないことだと気付く。

 彼は眠っていた。この上もなく安心しきった寝顔で。


 吐息を一つ。


 このまま放っておくわけにもいかないわねー彼女は立ち上がり、店の方へと向かう。

 今日はこれで帰るーそのことを店主に伝えるためだ。

 さて、理由はどうしよう?

 マリアはほんの一瞬立ち止まり、そうだなーと考える。

 視界の端に、爆睡中の大神の姿が映った。


 ーけがをした野良猫を拾ったとでも言っておこうか?


 その思いつきにマリアは口元にかすかな笑みを刻んだ。

 本当に無造作に、無意識に。

 それはここ最近、彼女の顔に浮かぶことのなかった、ごく自然な優しい笑顔であった。






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