maruの徒然雑記帳


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花の名前〜20〜






 『だめ…』


 そんなかすかな声に揺り起こされて、大神はそっと目を開けた。

 考え事をするうちにいつの間にか微睡んでいたらしい。

 まだ眠り足りないと訴える瞼をこじ開け、色気も眠気には勝てなかったかと苦笑い。

 薄明るい部屋は、もうすぐ夜明けなのだと、そのことを伝えていた。


 『行かないで…お願い…』


 再び背後から聞こえる声。

 全く理解不能なその響きに首を傾げ、だがすぐにそれが彼女の母国ーロシアの言葉だと言うことに気がついた。


 (ロシアでの夢を見ているのか…?)


 多分そうなのだろう。だが、その夢が決して楽しいものでないことも分かる。

 言葉の意味は分からないものの、それでも彼女の声の響きは楽しそうでも幸せそうでもなくーそれは酷く切なく悲しそうな響きを大神の耳へ伝えていた。


 『だめ…いけない…。行ったらあなたは…』


 その言葉の内容を理解できないことがもどかしくて仕方なかった。

 大神は背を向けたままで考える。起こした方がいいのか、それともこのままそっとして置いた方がいいのかー

 そんな時、ひときわ高く彼女の声が狭い部屋の中に響いた。


 『お願い。死なないで…。そばにいて…ユーリー…』


 ユーリー。その名前には覚えがあった。

 彼はマリアがロシアにいた頃の隊長であり、彼女が心からの信頼を捧げ、そしてーたぶん彼女が生まれて初めて愛した男。

 その彼が、マリアの見るその目の前で真っ白な雪にその命を散らしたことは、いつだったかマリア本人の口から直接聞いて知っていた。

 彼女が随分と長い間、その瞬間の幻影に悩まされ続けていたことも。


 だから、瞬間的に大神は悟っていた。

 彼女がその時の悪夢を夢に見ていること。

 今まさに彼が死に至ろうとするその時の映像が彼女の目の前で再び繰り返されようとしていることをー


 そんなことはさせられない、そう思った。

 なんのためらいもなくマリアの方を向き、大神は震える彼女の肩を腕の中に抱きしめる。

 愛する人を失う恐怖にこわばった少女の体を何とかしてあげたくて、さらさらの金髪をぎこちなく撫で下ろしながら、大神はその耳元に何度も何度もささやいた。

 大丈夫だよ…安心して…俺はここにいるよ…ずっとずっと、君のそばにいるから…


 その言葉がどれだけ彼女の心に届いたのかは分からない。

 だが、ゆっくり、ゆっくりと彼女の体からこわばりが消えーやがては穏やかな寝息が大神にも聞こえてきた。

 ほっと息をつき微笑む大神。

 細い体を抱きしめていた腕を解き、そのまま腕枕をして彼女の寝顔を見つめた。


 涙に濡れた頬を手の平で拭い、額に触れるだけの優しいキス。

 もう彼女が泣かなくて済むように…悲しい夢を見なくてもいいようにーそんな思いを込めて。

 腕に感じるのは愛しい少女の重み。

 大神は彼女を守るようにそっと腕を回すと、再び静かに目を閉じた。

 こんな状態で眠れるとは思えなかったものの、なんだかとても満ち足りた、幸せな気持ちだった。


 微笑み、彼はじっと耳を澄ます。

 自分の鼓動と、彼女の鼓動とー心を凝らして聞き入るうちに、二つの鼓動がだんだんと重なり合って聞こえる気がした。


 トクン…トクン…トクン…トクン…


 そんな規則的な律動が大神を眠りへと誘い込む。

 腕の中の愛しい存在を壊さないように、でもしっかりと抱きしめたままー大神は再び微睡みの中へと落ちていった。







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