maruの徒然雑記帳
花の名前〜10〜
太陽が昇り、ニューヨークに新しい朝の訪れを告げる。
その光は余すことなく世界を照らし、窓から降り注がれるまぶしい日の光に人々もまた朝の訪れを知るのだ。
その日、大神一郎の朝も、そんなふうに始まった。
カーテン越しにも十分明るい朝日に、大神はゆっくりと目を開けた。
見慣れた自分の部屋とは違う天井をぼんやりと見つめ、ここはどこなんだろう、と考える。体の芯が妙にだるい感じだった。
しばらくそうしてぼーっとしていた大神は、自分の手が誰かの手を握っていることに気がついた。
その手を追うように視線を移動させていくとそこには、大神の手を握りしめたまま眠るマリアがいた。
きっと大神の手を引き剥がすことができずにそのまま眠ってしまったのだろうと、こみ上げる愛しさをかみ殺し、彼女の肩に手を伸ばす。
そっと触れた彼女の細い肩は、すっかり冷たくなっていた。
申し訳ないことをしたなー大神は思う。
どんな理由か分からないが、彼がベッドを占領してしまったのは確かなようだ。早く交代して、彼女をベットで休ませてあげよう。
大神はマリアの肩を驚かせないように揺すり、その目覚めを促す。
起こさずとも、抱き上げてベットに運んでやればいいようなものだが、それを思いつかないところが彼らしいとも言えるだろう。
大神はそっと小声で彼女の名を呼んだ。
「マリア……マリア……」
その声が聞こえたのか、彼女の目がうっすらと開きーエメラルドの二対の瞳が大神の顔を認める。
「良かった、やっとー」
目が覚めたんだねーその言葉も言い終わらないうちに、大神のこめかみに、目にも留まらぬ早さで何か堅く冷たいものが押し当てられた。
エンフィールド改ー大神もよく知るその銃を突きつけて彼女の不機嫌な声が詰問するように響く。
『何者?』
それは英語での問いかけだったが、海軍時代、異国人と会うことも少なくなかった大神は何とかその言葉の意味を理解する。
次いで訪れたのは混乱だった。
マリアがなぜ、そんなことを問うのか。
そして自分はどうして彼女に銃を突きつけられているのだろう。
自分は何かマリアを怒らせるようなことをしてしまったのだろうか?
そんな見当違いなことを考える大神が答えを導き出すより先に、マリアの意識がやっと眠りから覚醒した。
目を瞬かせ、目の前の青年を改めて見つめたマリアは小さく息を付き、銃を懐へしまい込む。
『…そう言えば、夕べは野良猫を拾ってきたんだったわね』
すっかり忘れていたと、独り言のようにつぶやかれた彼女の言葉の意味を理解しきれなくて、大神はきょとんとその顔を見つめた。
だが、雰囲気から誤解は解けたようだと感じ取り、いつものように彼女に話しかける。
いっさい日本語を使わない彼女をおかしいと思わなかったと言えば嘘になるが、その時の大神は自分がどんなことになっているか、まるで理解が及んでなかった。
「ねぇ、マリア。ここはどこなんだ?帝劇じゃあ、ないよな?」
『テイゲキ?それは場所の名前なのか?お前はいったいどこから来た?』
彼女の発した言葉に大神は困惑の表情を隠せない。
「マリア?それはいったい何の冗談……」
とまどいつつそう言いかけた大神は、はっとして目の前のマリアを見直した。
彼女がマリア・タチバナであるのは間違えようがない。
その顔も、声も、仕草もーそれは紛れもない彼女のもの。だがそこにほんの少しの違和感があった。
いつもの彼女より少しだけ長く伸ばされた髪、大神が見知るものよりわずかに幼く見える顔立ちー。
そして何よりも大きな違和感は彼女の美しいその瞳にあった。
まるで他人を見ているかのような眼差し。
それは出会ったばかりの頃の彼女を、大神の脳裏に鮮やかに浮かび上がらせた。
ごくりを唾を飲み、大神はつたない英語で彼女に問いかける。
いったいここはどこなのか、と。
怪訝そうな表情で、それでも彼女は律儀に答えてくれた。半ば大神も確信していたその名前ー米国の大都市、ニューヨークの名前を。
大神は自分を実験台にした少女を思い、天を仰いだ。
まいったーそれが正直な感想だ。それと同時に思う。君はやっぱり天才だーと。
かつて、まだ帝国歌撃団に入る前ーマリアがどこにいたのか、大神はそのことをよく知っている。
ここはニューヨーク。
ロシア革命の後、故郷を離れたマリアがしばしその身を潜めた大都会。
今の大神はなぜかその土地にいて、目の前にはその当時の、過去のマリアがいる。
紅蘭の発明品は、確かに大神を過去にとばすことに成功したのだ。
『答えろ。いったいどこからやってきた?お前は…日本人なのか?』
そう問いかけられたものの早口で言われたため、理解できずに彼女を見た。
そのことにマリアも気がついたのだろう。再び、今度はゆっくりと質問を繰り返す。
今度は大神にも理解できた。
日本人かーその問いに、大神は頷いてそうだと答える。その瞬間マリアが複雑な顔をしたのを、大神は見逃さなかった。
彼女の母親は日本人だと言うことは前に聞いて覚えている。
そのことが彼女の心にいろいろと複雑な感情を呼び起こすのだろうと、そんなことを思いながら黙ってその端正な横顔を見つめた。
そうして物思いに沈む彼女を見つめ、どれくらい経っただろう?
大神はふと、自分が昨夜の礼を言っていないことに気付いた。
彼女がけがをした大神をここに運び込んで面倒を見てくれたのだ。
今の彼女にとって大神はなんの関係もない人間だ。放っておいても良かったはずなのに、それでも彼女はこうして大神を助けてくれた。
そんな優しさは大神のよく知るマリアと少しも変わらない。そのことがなんだかとても嬉しかった。
『昨日は助けてくれてありがとう、マリア』
たどたどしい英語での礼に、マリアが軽く目を見張るのが分かった。
何か間違ったかなと、少し不安になる。
元々、英語は得意じゃないのだ。わざわざ英語を使ったのは、彼女の使う言葉で礼を述べるのがやはり礼儀にかなっているだろうと思ってのことだった。
本来なら彼女の母国語であるロシア語で礼を述べるべきなのだろうが、残念なことに大神はロシア語を全くと言っていいほど使えない。
前にマリアと行ったロシア旅行で、簡単なロシア語を習いはしたが、所詮は付け焼き刃。まるで役に立たない状態だ。
今度、マリアにきちんとロシア語を習おうー自分のあまりの不甲斐なさにそんなことを考えながら、いつまでも返事を返さないマリアを、大神は不安そうにじっと見上げた。
『……別に、礼などいらない』
少し経って、ぽつりと返された彼女の言葉はなんだか不機嫌そうに聞こえた。
が、その耳がほんのりと薄紅に染まっている。
それを見て不機嫌に聞こえるその声は、彼女の照れ隠しなのだと分かって、大神は思わず微笑みを浮かべた。
ここにいるマリアは、まだ大神との出会いを果たしておらず、もちろん大神のことを知る由もない。
それでもわずかな仕草や言葉の端々が大神の知る彼女に重なる。
もちろん積み重ねた時間が違うと言うだけの同一人物なのだからそんなことは当たり前だろうが、大神にとってはそんなごく当然な事実が、妙に嬉しくー彼女の見せた照れ屋で意地っ張りなところがなんだかとても愛おしく思えた。
そっぽを向いたままの彼女に、大神は微笑んだままー今度は日本語でその言葉を伝える。
「それでも俺は、君に礼を言いたいと思ったんだ。本当に、ありがとう」
再び繰り返された感謝の言葉。
どんな顔をしていいのか分からず、怒ったように大神を見るマリア。
緑の宝玉が二つ、真っ直ぐに大神を睨みつけ、大神もまたその瞳の息をのむような美しさに目を奪われた。
どれだけそうしていただろう。
先に根負けしたのはマリアの方だった。すっと目をそらして小さな吐息。
それからふと思い出したように再び大神を見て問いかける。体の調子は大丈夫なのか、と。
彼女の気遣いが嬉しくて、大神はまるで子供のような満面の笑みをその面に浮かべた。
大丈夫だよーそう答え、ありがとうと、マリアを見上げる。
マリアは諦めたようにため息をついた。
何を言っても無駄だと悟ったのだろう。ただ苦虫をかみつぶしたような表情で、大神を少しだけ睨んだ。
そんなマリアの表情すら新鮮で、全く応えた様子もなくにこにこ笑う大神に、少しぶっきらぼうにも聞こえる口調で食べたいものはあるかと尋ねるマリア。
食べられるようなら食事はした方がいいから、と。
「ボルシチ!」
迷うことなく大神は答えた。それはマリアが得意とするロシア料理だ。
そして大神とマリア、二人にとって思い出の料理でもあった。
もちろん今目の前にいるマリアがそのことを知るはずもないが、それを抜きにしても大神は彼女の作るボルシチと言う料理がが大好きだった。
そんな大神の言葉にマリアの目が、大きく見開かれる。何か強い衝撃を受けたような、そんな表情。
そのまま彼女はなぜか食い入るように大神の顔を見つめていた。
突如豹変した彼女の表情。
その強い眼差しにさらされて、大神はとまどい困惑する。自分は彼女にショックを与えるような、そんなことを言っただろうか、と。
それからおずおずと、
「ダメ…かな?」
そう尋ねてみた。
『…いや…そう言うわけではないが…』
彼女は歯切れの悪い口調でそう答える。
何かを探すように大神を見つめていた目が不意に逸らされた。
そしてそのまま乱暴に大神の肩を押し、その体をベットの中に押し込む。寝ていろーそう言って、マリアは毛布をその肩口に引き上げた。
『材料がないからボルシチは無理だ。代わりに何か、胃に負担のないスープでも用意してくる。それまで少し、休んでいろ』
大神はおとなしく布団にくるまり、彼女の言いつけに従う。まだ本調子でないことは、自分が一番よく分かっていたからだ。
丸くなり少し眠っておこうとしたとたん、彼女の言葉が降ってきた。
『そういえば、お前…名前は?』
「名前?そうか、まだ言ってなかったね。俺は大…」
大神一郎と、正直に本名を答えかけ、大神は慌てて口をつぐむ。
紅蘭に注意されたことを思い出したのだ。
言いかけて、口を閉じた大神に怪訝そうな眼差しを向けるマリア。
そんな彼女に向かってごまかすように微笑み、「一郎だよ」と、短く答えた。
それを聞いたマリアは、覚えるように今聞いたばかりの名前を口の中で繰り返している。
その響きが耳に新しくて、大神は首をすくめて小さな笑みを漏らした。
ーマリアは俺を隊長としか呼ばなかったからな
だからだろうか。彼女の声で響く自分の名前は妙に新鮮だ。
心地よく耳に響くその声を聞きながら、大神はくすぐったそうに笑うのだった。
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