maruの徒然雑記帳


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恋夢幻想〜35〜






 視線を感じて振り向くと、血にまみれた男がこちらを見つめていた。

 身を起こしかけたまま、それ以上身動きもできずに彼を見つめ返す。ひどい状態だ。まだ生きているのが不思議なくらい。

 ほんの一瞬、二人の視線が絡み合う。

 だがその直後、彼は喘ぐように口を開き、その瞳をさまよわせーそれからゆっくりと目を閉ざした。

 苦しそうな様子はなかった。

 穏やかに彼は深い眠りのそこに落ちていった。もう二度と目覚めない永遠の眠りへと。


 「終わったのか…?」


 掠れた声で大神はつぶやく。

 だがそれが幻想でしかないことを彼はすぐさま思い知らされた。

 ゆっくりと、にじみ出すように叉丹の中からわき出た黒い気体が、抜け殻となった彼の肉体を大神の目から覆い隠す。

 その向こうで何かが起ころうとしていた。見えなくても伝わってくる強大な存在の威圧感に、大神は自らの足がすくんでいることを自覚する。

 目を見開き、そこからそらさないようにするのに多大な努力が必要だった。


 すぐにでも回れ右をして逃げ出したい衝動を必死に堪え、大神は己の剣を手に立ち上ちあがる。

 あれは良くないものだと本能が訴えていた。

 終わらせてしまわなければ。悪夢が始まる前にー

 大神が走る。

 始まろうとする悪夢を無に帰すために。


 ーだが遅かった。


 静かな目覚め。

 その存在が目を開ける。

 そしてその一対の瞳が大神を認めた瞬間ー大神の体は強大な力の奔流をまともに受けて吹き飛んでいた。

 自分に何が起きたかも認識する暇もなく、大神は背中から石の壁に激しく打ち付けられる。

 そしてそのままずるずると床に座り込んだ。

 立ち上がることもできずに大神は衝撃にかすむ目を前に向ける。そこに一人の存在がいた。


 闇の翼を持つもの。

 雄牛の角を持ち、鋭い牙をその口元からのぞかせる、禍々しくも美しい、神々しいまでの威厳を感じさせる存在をなんと呼べばいいのかー大神はその言葉を持たない。

 だが、それが邪悪なものであるということーそのことだけははっきりと理解できた。

 あれがこの世界に存在していいものではないということだけは。


 「我、覚醒せり」


 重々しい声が響いた。ただそれだけで全身が粟立ち、叫びだしたいほどの恐怖に駆られる。

 それに必死で耐えながら大神は声を張り上げ、問いかけた。


 「何者だ…」


 それだけの言葉を発するだけで、体中がひどくいたんだ。

 どうやら肋骨を二、三本やられたらしい。

 更にそのうちの一本が肺を傷つけているようだ。呼吸のたびに血の匂いが口腔を満たした。

 そしてなぜか右腕の付け根が焼けるように熱かった。


 「我が名は悪魔王サタン」


 腹の底まで響くその声は、人間の原初の恐怖心に訴えかけてくる。

 あらがえない恐怖を無理矢理押さえつけ、大神は悪魔王と名乗るその存在をにらんだ。

 そのまま右手をつき立ち上がろうとして、それができないことにそこで初めて気がついた。

 不思議に思い、自らの右腕を見下ろして愕然とする。


 そこにはあるべきはずのものがなかった。

 彼の肩は見慣れた腕の代わりに、肉と骨とをのぞかせる断面をさらし、そこから紅い液体をあふれさせている。

 しばらくのあいだ呆然とそれを見つめ、それから大神は周囲を見渡した。

 何かを探すように。


 捜し物はすぐに見つかった。

 大神から数メートルと離れていない床の上。剣を固く握りしめたまま、それはまるでゴミのようにそこに転がっていた。

 大神はほんの一瞬目を閉じ、それから仰ぐように上を向く。体にまるで力が入らなかった。

 それでもあきらめきれずに大神の足は弱々しく堅い床を蹴る。大神の目はまだ輝きを失ってはいなかった。

   そんな大神をサタンは哀れみをも込めた目で見た。その唇が慈悲深く言葉を紡ぐ。


 「あきらめるがいい。お前はもう死ぬ」


 恐ろしくも美しいその瞳を見つながら、大神は自分の体がもう思い通りに動かないことに気がついた。

 死ぬのかー大神は思う。こんな所で、何もできないままー。

 かすむ目を精一杯に見開いて眼前に立ちふさがるその存在を見上げる。

 その瞳を熱い液体が満たし、その一筋が頬を伝って地面に落ちた。

 あきらめたくはなかった。

 だがどうにもならない絶望が大神の心を黒く塗りつぶそうとしていた。







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