maruの徒然雑記帳


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恋夢幻想〜18〜






 マリアが大神の部屋を後にして間もなくのことだった。

 かたん、小さな音を立てて窓が開く。続いてなま暖かい風が頬をなでた。

 大神はゆっくりと目を開ける。


 少しずつ視界が広がっていき、そこになによりも愛しい人の顔を認めたとき、大神はなにも考えずに、ただ微笑んでいた。

 敵とか味方とか、そんなことは頭になかった。

 彼女がいる。

 手を伸ばせば届く、そんなところに彼女が存在することーそれだけで、泣きたいくらいに幸せだった。


 「なぜそんな顔を?」


 彼女が問う。

 それは以前の彼女の声とはまるで違う、冷たい声。

 大神のことを、何とも思っていない声。

 でも、それでも、それは彼女の声だった。


 「なぜ?」


 繰り返されたその言葉に、大神は微笑んだまま答える。


 「それは、あなたがここにいるからだ。あやめさん…」

 「…馬鹿な子」


 見下すように、哀れむように、彼女はそう言った。

 細い指が大神の首に掛かる。

 見かけからは考えられないような力で、ゆっくり、ゆっくりと、彼女は大神の首を締め上げた。


 「本当に馬鹿な子。私はあなたを殺しにきたのよ?」


 その言葉に大神は、驚きも騒ぎもしなかった。

 そのことは、最初から分かっていた気がした。彼女が自分を殺しにくることはー。

 でもそれでもいいと思った。彼女になら殺されてもかまわない、そう思っていた。

 だからー

 大神はあやめを見る。

 せめて最後の瞬間まで彼女を見つめ続けたいたかった。


 「−なぜ、抵抗しないの?」


 彼女の言葉に大神はただ微笑んだ。

 胸にある思いは言葉にするのが難しくて、うまく伝えられそうになかったから。

 だんだんと暗くなる視界の中で、あやめの顔が少し哀しそうに、苦しそうにゆがんで見えた。

 でも気のせいだと思った。

 彼女が自分のためにこんな顔をするはずがない。


 しかし、大神の瞳に映る彼女はやはり今にも泣き出しそうな顔をしていてーあぁ、これは夢なんだなぁと、大神は思う。

 人が死ぬ直前に見るという、これはそんな幸せな夢なんだとー。

 泣かないでーそう言いたかったが声が出ず、大神は震える手を伸ばし、彼女の頬にそっと触れる。

 壊れ物を扱うように柔らかな頬に優しく指を滑らせ、伝えられぬ思いを込めて大神はただ微笑み、彼女を見つめた。


 いよいよ視界が暗くなってきた。

 もうすぐ死ぬのかなーまるで他人事のように大神が思ったそのとき、頭の中になぜかマリアの顔が浮かんだ。

 哀しそうな顔ー。

 ふいに彼女と交わした約束を思い出す。

 必ず勝とうと誓い合ったのはほんの数時間前のこと。


 ごめん、マリアー大神は心の中で彼女にわびる。

 約束は守れそうもないーと。

 そんな申し訳ない気持ちはあったものの、不思議と心は穏やかだった。

 死を怖いとも思わなかった。


 かすむ目にあやめの姿をただ映す。

 揺れる彼女の瞳は、怖いくらいにきれいだった。

 大神は目を閉じた。

 もう、思い残すことはない。

 ただ、マリアのことだけが心の隅にあった。

 なぜ彼女のことだけがこんなに気になるのか、決してわかりはしなかったけれど。


 そのときだった。

 ふいにあやめの手が力を失い、大神の首から離れた。

 突然入り込んだ大量の酸素に、大神は激しくせき込み、そしてそのまま潤んだ瞳であやめを見上げる。

 すると今度こそ幻でもなんでもなく、今にも泣き出しそうな顔で大神を見つめる彼女がそこにいた。


 思うよりも先に、手が、体が反応した。

 気がついたとき、大神の腕の中には彼女がいた。

 かすかにふるえる彼女の体を力の限り抱きしめる。

 彼女が愛しかった。どうしようもなく…。

 たとえ彼女が降魔だろうと、何であろうと。

 愛しているー全ての思いを込めて、大神は彼女を抱いた。


 「どうして…」

 「え…?」

 「どうしてそんなに…」


 あなたは優しいのー泣き笑いのような彼女の声。

 見つめる彼女の瞳に涙はない。

 だが大神の目には彼女が泣いているように見えて仕方がなかった。

 その見えない涙を止めてあげたくて、大神は彼女の艶やかな髪をそっとなで下ろしながら、その額に、瞼に、頬に、ふれるだけの優しいキスを繰り返す。

 まるで、目に映らないその涙を自らの唇ですくい取るかのように。

 あやめの頬を両手でそっと包み込み、泣かないでーとささやく。

 彼女が小さく笑った。


 「なぜそんなことを言うの?私は泣いてなんかいないわ」


 そう言いながらも、彼女はとても辛そうに見えた。

 たまらずに大神は柔らかな彼女の声をすくい取るように、自らの唇で彼女の唇を覆う。

 そして、自分の額を彼女の額に預けるようにして、つぶやくように言った。


 「それでも俺には、あなたが泣いているように見える」


 そんな大神を愛しそうに見つめ、あやめが微笑う。


 「馬鹿ね…」


 ささやくようなあやめの声が耳を打つ。

 さっきまでとは明らかに違う、柔らかな口調。

 昔の彼女となんら変わりのない、そんな…


 「本当に馬鹿なんだから…。泣いているのはあなたのほうでしょう?」


 ー泣く?俺が?


 大神は言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。

 暖かな液体がゆっくりと流れ落ち、頬をぬらしている。

 大神はそれを拭うことをせずにあやめを見つめていた。

 何か言いたいことがあるはずだった。

 いま伝えないと必ず後悔する、そんな言葉が。

 焦る大神の頬に、あやめの手が伸びる。

 その手が優しく頬にふれた瞬間、その言葉はあっけないほど簡単に大神の唇からこぼれでていた。


 ーもうどこにも行かないで


 彼女が哀しく笑った。


 「無理よ。私はもう人じゃない。降魔なのよ」

 「そんなこと関係ない。あやめさんはあやめさんだ。みんなだってそう思っている。−あなたが必要なんだ」

 「忘れないで。私はあなたの敵なのよ。もう戻れないわ…。そんなこと許されない」

 「許されない?誰が許さないと言うんです」


 腕を伸ばし、あやめを強く抱き寄せた。腕の中であやめの体がかすかに震える。

 大神はその耳元に唇を寄せ、そっとささやいた。


 「もしたとえそれが許されないのだとしたら、そのときはー」


 大神は言葉を切り、あやめの顔を見る。彼女の瞳が不安そうに揺れていた。

 その表情は決して降魔殺女のものではあり得なかった。

 大神は思う。

 誰がなんと言おうとこの人は藤枝あやめその人に違いない。

 俺が、誰よりも愛する人だ、と。

 大神は微笑んだ。

 なにもかも吹っ切れたような、そんな笑顔で。


 「−そのときは、一緒に逃げましょう。明日の戦いが終わって、帝都に平和が訪れたら。どこまでも、二人だけで…」

 「大神君…」

 「逃亡生活も、あなたと一緒ならきっと楽しい。ずっと、俺のそばにいて下さい。あなたをもう、離したくない」


 あやめはなにも答えない。

 口を開かず、ただ小さく首を振った。縦にではなく横に、だ。


 「あやめさん…!」


 大神の瞳があやめに問いかける。

 なぜなのか、と。

 だって、とあやめが笑う。哀しそうな目をして、少しだけ淋しそうに。


 「しょせん夢物語にすぎないわ。決して叶わない夢…」

 「そんなことない!」

 「じゃあ、今すぐつれて逃げてっていったらーあなたはどうするの?」


 声を荒げた大神は、あやめのその静かな問いに一瞬言葉に詰まる。


 「っ…それは…それでも、あなたがそうしたいというのなら、俺は…」

 「あなたにはできないわ」


 必死の思いで紡ぎだした言葉に間髪入れず否定の言葉を返され、大神はなにも言い返せずに押し黙った。

 彼女の言うとおりだった。

 自分がそのことを一番よく知っている。

 自分を隊長と慕う花組のみんなを見捨てて逃げることなどできるわけがなかった。


 あやめを愛してる。

 しかし花組のみんなを大切に思う気持ちも、また真実だった。

 泣きたいような思いであやめを見る。彼女をもうはなしたくはなかった。

 だがみんなを裏切ることもできない。

 そんな大神の心を感じたのか、あやめは大神の背に腕を回し、その胸にそっと冷たい頬を寄せた。


 「でもそれでいいのよ。ここで仲間を見捨てるようだったらあなたはあなたじゃなくなってしまう。本当に、まじめで融通が利かなくてお人好し…でもー」


 そんなあなたが、私は好きなのーあやめはそう言って、大神の唇に自分の唇を寄せた。


 「愛してるわ」


 ささやいて、ふわりと大神の元を離れる。

 宙に浮いた彼女に手を伸ばし、大神はその手を優しく握る。

 そして言った。


 「俺も、愛しています、あやめさん。世界中の誰より、あなたを愛している…」

 「…もう、いくわ」


 ゆっくり、ゆっくりと、あやめが離れていく。

 大神はもう引き留めなかった。

 彼女を選びきれなかった自分にその権利はない。

 でも、あきらめるつもりもなかった。

 だからー


 「明日、あなたを迎えに行きます。待っていて下さい。俺は、あなたをあきらめるつもりはない」

 「…私は叉丹様の降魔だわ。叉丹様のために戦い、叉丹様のために死ぬの。あなたのお迎えに応じるわけにはいかないわね」

 「そうはいかないですよ。俺は、あきらめの悪い男だから、そう簡単にはあきらめない」


 しょうがないわねー彼女が笑った。

 大神も笑う。


 「そこまで言うなら、首を洗って待ってることにするわ」

 「ええ、期待して待っていて下さい。必ずあなたをこの手に取り戻してみせるから」

 「…じゃあ、さよなら。もういくわ」

 「ええ…また後で」


 ふわりと微笑んで、あやめは一瞬のうちに空にかき消えた。

 その微笑みの残像だけを残してー。

 大神は大きく息を吸い、開け放たれた窓の外を見た。

 空はもうすでに白み始めている。

 あまり寝ていなかったが、体の疲れはすっかりとれていた。

 のびをして、ベッドの上に仰向けに寝る。

 もう少しだけ眠ろうーそう思った。

 今度はきっと、いい夢が見られるだろう。大神は、ゆっくり目を閉じた。


 戦いの朝が明けようとしていた。






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