maruの徒然雑記帳
龍は暁に啼く
第五章 第五話
「も、もうだめ……これ以上、は、走れないよ」
「もうちょっとだ。頑張って」
途切れ途切れの弱音に反射的に励ましの声をかけながら、キアルも自分も限界が近いことを感じていた。
目指す雷砂の住居まではまだたどり着きそうに無い。
もちろん雷砂や、その友人の狼・ロウの姿も気配もまだ無い。
−だめ、なのか……
あきらめの気持ちが浮かび上がってくる。後ろから聞こえてくるのはたくさんの獣の息遣い。
彼らは、まだ諦めてくれないのだ。
「あっ……」
その時、疲れ果てて足がもつれたのか、それとも石に躓いたのか、ミルファーシカが地面に倒れこむ。
「ミル!!」
急いで助け起こそうとするが、少女にその力は無く、少年にも無理やり抱き起こしてやれるほどの力は無い。
倒れ伏したまま、荒い呼吸を繰り返す少女を途方にくれたような瞳で見つめ、それから背後を振り向いた。
獣達は、すぐそこに居た。
今にも飛び掛って来そうな様子の獣達を、それでも力ない目で睨み、キアルは気休め程度の小さなナイフを取り出す。
小さいながらも手入れの行き届いたそのナイフは、先日の誕生日に母がくれた物。
ナイフを使って細工するのが好きな息子の為に、使い勝手のいい丈夫なナイフをと、村の鍛冶師にわざわざ注文してくれた物だった。
ナイフを震える両手で握り締め、少女と獣の間を遮るように立つ。
何とかしてミルファーシカを守りたかった。だが、自分だけでは守れない。
ならば、せめて助けが来るまでの時間稼ぎが出来れば……
キアルは唇をかみ締める。
ナイフを獣達に向けて突き出し、せめて金属の輝きに怯んではくれないかと淡い期待を寄せるが、怯む様子は全く無い。
「ミ、ミル?」
「キアル……キアル……怖いよ」
「大丈夫。雷砂が助けてくれるよ」
「ほんと?」
「うん。けど、それにはもうちょっと時間がかかりそうだから、おれが時間を稼いでくるよ」
「時間を、稼ぐ?」
恐怖に捕らわれ、思考を停止していた少女がその言葉の意味を理解するのには少し時間がかかった。
だが、少年は少女が全てを理解するのを待つつもりは無かった。
絶対に止められることは分かっていたから。
「……それって」
「大丈夫だよ、雷砂はきっと来てくれる」
だから、少女の瞳が理解の色を宿し、言葉を発しようとしたのを遮るようにそう言って、キアルは獣達に向かって駆け出した。
やせっぽちの小さな身体だ。大して食べる所も無いだろう。
だが、自分を食べ終えるまでの間の時間は稼げる。
その、何とか稼いだ時間で雷砂が駆けつけてくれるよう、祈る事しか、もうキアルに残された道は無かった。無いと、思っていた。
どこにそんな力が残っていたのだろう。これまで生きてきた中で一番といっていい程のスピードで、キアルは草原を駆けた。
目に入る中で、一番身体の大きなディンゴを目指す。
いきなり獲物が反転して駆けて来たので、ディンゴの群れに僅かながらも混乱が生まれていた。
キアルはその機を逃さずに、小さな牙を振りかぶった。
確かな手ごたえ。甲高い、獣の悲鳴。
どこに当たったのか分からないが、確実に傷を着ける事は出来たに違いない。キアルはその結果にほんの少し安堵し、息をついた。
そんな僅かな隙を、傷つけられ、怒りに染まった獣は見逃さなかった。
−おれ、死ぬんだな。
すかさず飛び掛ってきた獣の、大きく開かれた口にずらりと並ぶ牙を見つめながら、キアルは妙に冷静にそう思った。
−痛くないと、いいなぁ。
そう思い、目を閉じようとした瞬間、その視界に何か黒いモノが飛び込んできた。
ついで聞こえたディンゴの断末魔の悲鳴。
驚いて目を見開くと、目の前にはキアルを守ってなのかは分からないが、ディンゴの命をあっという間に奪った生き物が居た。
漆黒の毛皮。
その体躯はディンゴより更に一回りほど小さく、その姿は愛玩用に飼われる事の多い、猫という生き物に良く似ていた。
さほど大きくない口元は血にまみれ、小さいながらも鋭い牙が並んでいる。
爪は恐ろしいほど長く尖っており、長い尾をゆったりと振りながらキアルを見上げるその瞳は血よりもなお濃い赤色。
その色は、魔鬼の持つ瞳の色。
物心ついてすぐに教えられ、事あるごとに繰り返される魔鬼の恐ろしい逸話を思い出し、思わず身震いする。
が、何故だろう。目の前に居る恐ろしいはずの生き物は、何故だかちっとも怖く感じられなかった。
漆黒の魔鬼は、キアルの身体に傷が無い事を確かめるように、一通り彼の体を眺め回し、それから満足したように背を向けた。
その背中から陽炎のような殺気が立ち上り……殺戮が始まった。一方的な殺戮が。
獣は流れるような動きで、まるで息をするように自然に、それまで狩る側にいたディンゴ達の群れを蹂躙していった。
その様子を、身動きすることすら出来ずにキアルは見つめた。小さな声がその耳に届くまで。
届いた声は愛しい少女のもの。怯えきった彼女をなだめる為、言う事を聞かない足を何とか動かして、その傍らに座り込んだ。
疲れと恐怖で、もう一歩も動けない。
せめてこの残酷な光景をこれ以上は彼女に見せまいと、小さな震える身体を腕の中に抱え込んだ。
むせ返るような血の匂いからも、何とか守りたいと、とにかく必死になって抱きしめた。
気がつけば。
いつの間にか辺りに響いていた悲鳴が聞こえなくなっていた。
恐る恐る顔を上げ、辺りを見回す。見渡す範囲に、もうあの黒い魔鬼の姿は無い。
目の届く限りの空間に、キアルとミルファーシカ以外、動くモノは何も無かった。
草原をうめつくすのは撒き散らかされた赤い液体と生き物の残骸、そして胸の悪くなるような濃厚な死の香り。
思わず気の遠くなるような光景だった。
腕の中の少女の意識はとおに無い。それだけが救いだった。
彼女に、こんな残忍で残酷な光景は見せられない。
自分だって、これ以上は耐えられそうに無い。
そして少年は。
己の心を守るため。
静かに意識を手放した。
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