maruの徒然雑記帳


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龍は暁に啼く


第五章 第十一話






 家の中はガランとしていた。

 以前であれば、母が必ずキアルの帰宅を待ち、食事の準備をしていてくれた。

 だが最近の母は、家を留守にしていることが多い。

 体調が良くなり、頻繁に外出しても大丈夫になった事は喜ばしいが、母の姿が家に無いことが何とも言えず、寂しかった。


 特に今日は……あんな事があった今日だけは、母の腕の中に何も考えずに飛び込みたかった。


 一歩間違えれば、今日、あの時、キアルは死んでいた。

 運が良かったから、今もこうして生きていられるだけだ。ただ、運が良かっただけ。

 目を閉じれば、まるで脳裏にこびりついてしまったかのように、赤に染め上げられた草原の光景が瞼の裏に浮かぶ。

 鼻の奥には今もまだ、鉄臭い血の匂いが残っていた。


 母さん、まだかな−ベッドの上で膝を抱えたまま、閉まったままの戸口に目を向ける。


 近頃、母の帰りは遅いことも多く、待ちきれず眠ってしまう事も多々あった。

 だけど今日だけは、母の顔を見てから眠りにつきたかった。

 今日の事を話し、危ない事をしてはいけないと叱られ、大変だったわねと優しく抱きしめて欲しかった。


 まだかなと、もう一度思う。


 最近の母親は少しおかしいのだ。

 本当はその事を雷砂に相談したかった。

 だがそれと同時に、雷砂に相談してはいけないと、心のどこかで警鐘がなってもいた。


 だから、なんでもないと……母親の事は心配ないのだと、雷砂に嘘をついた。

 自分の笑顔に不自然さはなかっただろうか?嘘をついたことはばれなかったか?


 綺麗な彼の友人は、ほんの少しだけ、不審そうな顔をした。

 探るようにじっと見つめられた時間はほんの数秒のことだったはずだが、ずいぶんと長く感じられた。

 追及されたら、もしかしたら話してしまったかもしれない。

 母親の異変の事を。


 いや、それでもやはり話さなかっただろう。

 母の身に起きた変化は、決していいことばかりではなかった。

 それを誰かに話すのは、たとえそれが雷砂であろうとも怖かった。

 だが、雷砂はそれ以上しつこく問い詰める事をせず、微笑んでただ救いの手を差し伸べてくれた。


 胸の辺りを、服の上からそっと抑える。

 そこには小さく固い感触。雷砂と彼女のオオカミにしか聞こえない笛だという。


 キアルは微笑み、ベッドに寝転がる。

 ほんのり胸が温かく、今だったら一人でも眠れそうな気がした。

 横になったまま、ドアを見る。母親が帰ってくる気配はない。

 少し眠ろう−そう思う。

 まだ寝てしまうには早い時間だが、今日はとにかく疲れてしまった。少し眠って、それからまた起きればいい。

 その頃には母も帰ってきていることだろう。

 段々重くなってくる瞼に逆らうことなく、キアルはゆっくりと眠りの淵に落ちていった。


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