maruの徒然雑記帳


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龍は暁に啼く


第五章 第一話






 暗闇に一人の女がいた。

 暗闇よりなお暗い目をして。

 絶望と憎しみに塗り潰された、そんな目をして。

 骨と皮の様な体に、げっそりと肉がこそげ落ちてしまったような顔。

 かつては美しかったであろう彼女の美貌を蝕んだのは、長年の苦労と決して癒えぬ病。

 彼女に残された時間はもう残り僅かだった。


 そんな彼女の胸を苛む想いは二つ。

 ただ一人の息子への尽きせぬ愛情と不安、そしてかつて愛した男への憎悪と怨嗟。


 かつて。

 彼女が若く美しい娘だった頃。

 彼女は一人の男と恋に落ちた。

 男は村の者ではなかった。

 浮草の様な旅の行商人で、彼女とは季節が一巡りするだけのほんの僅かな時間を共に過ごした。

 やがて、別れの時が近付き、男はまるで現実味のない甘いだけの言葉を残して去って行った。

 今の彼女であれば決して信じないような言葉を、当時の彼女は信じた。

 まだ、子供だったのだ。


 そんな不実な男の子供を宿していると気が付いたのは、彼が出て行ってすぐの事だった。

 堕胎する事など考えなかった。

 きっとすぐに、男が迎えに来てくれると信じていたから。

 だが、一年たち、二年たち、たちまち五年の歳月が過ぎても男は現れなかった。

 その頃には彼女も薄々気が付いていた。

 あの男が戻る事はないと。

 だが、子供は日に日に大きくなり、父親の稼ぎのない家庭は貧しかった。


 ある日、肋の浮いた息子の身体を抱きしめ、彼女は決意する。

 あの男に会いに行こうと。

 自分の息子を見れば、無責任なあの男もきっとかつての愛情とそれに伴う責任を思い出してくれるに違いない。

 五年という、決して短くない歳月の流れを経てなお、彼女は愛した男の愛情と良心を信じていた。


 しかし、現実は残酷だった。

 しばらく会わぬ間に店を構え、大店の亭主となった男には既に家庭があり、子供も二人いた。

 彼は、訪ねてきたかつての恋人をまるで虫けらを見るような目で見た。

 そして問うたのだ。

 その子供は本当に自分の子供なのか、と。

 もちろんそうだと答える女に、男は金の入った袋を放ってよこした。そして言った。

 その子供は自分の息子とは認めない。金をやるからもう二度と来るな、と。


 愕然とした。

 自分が愛したのはこんな男だったのかと。

 金の為に来たわけじゃないと突っぱねたかった。だが、苦しい生活がそれを許さなかった。

 屈辱を押し殺し、はいつくばるようにして金を拾った。袋からこぼれた硬貨も余す事が無いように。

 その様子をしばし嘲笑うように見つめた後、男は去った。

 二度と振り向く事なく。何の未練も見せずに。


 男が憎かった。

 殺してしまいたいほどに。

 父を父とも呼べぬ息子が哀れだった。

 そして、そんな息子を残して死なねばならぬ我が身の不幸を呪った。


 −ああ。


 彼女は吐息を漏らす。


 −ああ。


 尽きせぬ怨念と無念を吐き出すように。


 −ああ。


 その瞳から涙が溢れる。

 赤い赤い、血の涙が。

 いっそ鬼になってあの男の首をひきちぎってしまえたら。

 あの男から全てを奪い、それを残らず息子に与えてやれたら。

 そんな人の道を外れた思いに心が染まり始めた時、その声は聞こえた。


 −力がほしいか?


 小さな声だが、なぜかとても鮮明に耳に届いた。

 周囲に人影はない。

 薄暗い家の中にいるのは彼女一人。息子は外に働きに出ていて帰るのはまだ先だ。

 誰の声もするはずはないのだ。

 それなのに。


 −力が、欲しいのだろう?


 その声は聞こえてくる。

 低く、誘惑するように。


 −お前の望みを、全て叶える力をやろう。


 どこまでも魅力的な声が、邪悪な誘いをかけてくる。彼女に、抗う術は無い。


 −力が、欲しいか?全てを手に入れる為の力が。


 優しく、彼女の心を絡めとるように問いかけてくるその声に。

 まるで操られているかのように、何の抵抗も無く。

 彼女は頷いていた。

 それは、彼女が人としての己を捨てた瞬間。


 −ならば与えよう!


 高らかに、宣言するようにその声が答えた瞬間、彼女の中を風が吹き抜けた。

 それはものすごい風だった。

 彼女の全てを持っていこうとする突風を耐え抜いた後。

 そこにはそれまでとは全く違うモノになった彼女がいた。


 病に窶れ、疲れ果てた女の姿はもうどこにも無い。

 そこにいるのは、匂い立つような女。

 全ての男が振り向き、求めずにはいられないような、抑え切れぬ色香を放つ、美しい女。


 −望む力は全て与えた。後は好きにするがいい。


 与えるだけ与えて、その見返りすら求めずに。

 その声も気配も、唐突に消えた。

 紅い紅い、血よりもなお紅い唇を歪めて女が笑う。

 禍々しく、そして壮絶なまでに美しく。

 あの声が何を考えて力を与えてくれたのかは分からない。

 何らかの思惑もあるのだろうが、そんな事はどうでもいい。

 自分はただ、与えられた力を使って望む事を果たすだけ。

 ただ、それだけ。


 −まずはあの人の…


 その時、勢い良く扉が開いた。

 澱んだ空気を吹き込んだ風が吹き飛ばし、女は毒気を抜かれたように目をしばたく。


 「ただいま、母さん」


 まだ声変わりをしていない少年の声。

 何より愛おしいその声を耳にした瞬間、彼女の顔に母性が戻る。


 「おかえりなさい。今日は早かったのね」


 蕩けるような笑顔を浮かべ、息子の細い身体を優しく抱きしめた。


 「だって母さん、今朝はいつもより調子が悪そうだったじゃないか。何だか心配だったから」


 そう言いながら母の顔を見上げ、少年は絶句する。

 病に窶れ果てていたはずのその顔が余りに美しかったから。


 「かあ、さん?」

 「なぁに?」


 微笑んだ顔の妖しいまでの美しさ。

 その、ある種異様とも言える変貌に、ゾクリと寒気が背筋を這い上る。

 何かがおかしいと感じた。


 だが、少年はその思いを飲み込み、母親にすがる様に抱き着いた。

 彼女だけなのだ。彼にとっての家族は。

 守り、育て、愛してくれた。彼女だけが、なんの見返りすら求めずに。

 そんな母親を。

 たとえどんなに変わり果ててしまったとしても。

 見捨てられる訳がないのだ。離れられる訳がない。


 「身体はもう大丈夫なの?」

 「ええ。もう何ともないわ」

 「良かった」


 不安を押し殺し、母親の身体を抱きしめる。

 いい匂いがするはずのその身体からは、花のようなかぐわしい香りに交じって……なぜか死んだ生き物の匂いがした気がした。

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