maruの徒然雑記帳
龍は暁に啼く
第四章 第八話
「ごめんな。助けてやる事が出来なくて」
風に流されて消えてしまいそうな程の小さな呟き。
そこに込められた隠し様の無い愛惜の思いを、黒い獣はもはや感じる事すら出来ないだろう。
まだ若い命。これから伸びやかに健やかに育っていくはずだった命を、今ここで刈り取らねばならぬ事がただ悲しい。
だが、見過ごすわけにはいかない。
あの獣は自然の理の中から外れてしまった。次の命を生み育てる事も出来ず、静かに老いその寿命を全うする事ももう出来はしない。
世界に害悪をばら撒く事しか出来なくなった存在をこのままにはしておけなかった。
黒い巨体に剣先を真っ直ぐに向ける。小さな身体に小さな剣。
傍から見れば何とも心もとない感じを受けるが、少女は自分が負ける事などまるで考えていないのだろう。
まるで気負いのない、だが一片の隙も感じさせない構えで、ただ静かにその時を待っていた。
先に動いたのは獣の方だ。
緊張感に耐えられなくなった訳ではない。ただ、己の飢餓感を抑える事が出来なくなったのだろう。
まず目の前の小さな獲物を喰らってやろうと、一気に地を蹴り走り出した。
その巨体を迎える少女は微動だにしない。その瞳だけが、近づいてくる獣の姿を追いかける。
魔に落ちた事で、身体能力はかつての身体と比べようも無いくらいに上がっている。
地を駆けるその姿はまるで一陣の黒い凶風のようだ。
だが、雷砂の目は正確にその位置を捉えていた。
「すぐに、終わらせてやるからな」
その声が届くよりも早く、逞しい後肢が大地を蹴った。
大きな身体が軽々と宙を舞う。それを迎え撃つ獣の鋭い爪が獲物を狙った。
かすっただけでも大怪我を負うであろうその凶器を前に、雷砂は冷静に対処する。
まずは僅かに身体を開く事でその攻撃を紙一重でかわし……そしてすれ違いざま、的確に短剣を黒い巨体へ叩き込んだ。
だが、狙った首筋の毛皮が思いの他硬く、刃は凶獣の身の内まで届かない。
何度か同じ事を繰り返してみるが結果は同じ。
しっかり手入れはしてあるが、それ程高価なものでは無いし、刃も薄い。
早くも刃こぼれしはじめた愛剣に視線を走らせ、あまり長くもちそうも無い事を確認する。
時間をかけ外皮を切り裂き、その奥の骨肉に到達するまではどう考えてももってくれそうには無かった。
―やり方を変えるしかないか。
再び襲い掛かってきた前肢をかわし、軽く剣を振るって指の間を浅く切った。
そこの皮膚はそれ程頑丈ではなかったらしく、獣が初めて苦痛の唸り声を上げた。
―よし。いけそうだ。
心の中で頷き、雷砂は風を切って襲い掛かる左右の爪をかわしながら同じ事を繰り返した。
どれくらいそうしていたか。
気がつけば、よけきれない爪がかすったのか、頬や腕、肩口を何箇所か、鋭く裂かれて血が流れ出していた。
だが、怪我を負っているのは相手も同じ。
両方の前肢の指の間から血を流し、獣は苛立った様に雷砂の周りをウロウロしながらこちらの様子を窺っている。
足先の些細な怪我など、彼にとって大した痛手では無いであろう。
だが、切られれば痛いし、小さな傷も数が増せばうんざりもしてくる。
彼は考えていた。次はどうやって攻撃をしようかと。
大した知性の無い頭でも、繰り返し痛みを与えられる事でようやく理解した。
前足で攻撃し続けても、あの小さな獲物は倒せない。
ならばどうしたらいいのか。回転の遅い頭脳が答えを探し、そしてたどり着く。
爪が駄目ならもう一つの武器を使えばいい。自分には鋭く大きな牙があるのだから。
そうと決まれば後は行動するのみ。
大きな身体を可能な限りの早さで動かして、小さな標的の死角から一気に襲い掛かる。
大きく口を開け、鋭いその牙で。
だが、雷砂はその瞬間を待っていた。
あえて隙を作り、狙い通りに襲い掛かってきた獣に素早く向き直る。
その事に気がついた獣は僅かに動揺する。
しかし、動き出した身体は止まらない。
迫る黒い獣に向かって、少女もまた走り出していた。
互いの身体がぶつかり合うその瞬間、小さな獲物を頭から噛み砕こうとした顎の正面からほんの少しだけ身体を左へ傾ける。
そしてそのまま右手に握った剣を獣の喉の奥へ突き入れた。
腕ごと、肩の付け根まで。
肉を貫いた感触が伝わってくる。
やはり身体の中は表面より硬くなかったと冷静に考えながら、致命的な損傷を与えるべく、短剣を可能な限り広範囲に動かした。
それは一瞬の出来事。
次の瞬間には驚いた獣が反射的に顎を閉じるより先に剣を引き抜いていた。
その勢いのまま後ろに飛びのき、様子を見る。油断無く剣を構えたまま。
獣はそのまま数歩前に進んで足を止める、獲物を引き裂く事も出来ずに閉じられた口からおびただしい量の血が溢れていた。
雷砂はその痛ましい姿から目を逸らすことなく、じっと真っ直ぐに獣の目を見つめていた。
「……もう、眠れ。楽になっていい」
その声に促されたように。大きな身体がどうと倒れる。
土煙をあげ、地響きを立てて。そしてそのまま動かなかった。
近づいていくと、血の色の瞳だけが僅かに動いた。だがすぐに、その瞳も光を失い、そして―。
ゆっくりとその身体は空に溶けていった。黒い、霞となって。
魔に堕ちたモノは、その身を土に返す事すら出来ない。
彼らが死ぬとその身は魔気となり、大気に溶ける。
何の痕跡も残さずに。最初から居なかったモノのように。
雷砂は霞んで消えていく大きなその姿を見つめた。
その身体を構成していた黒い霞の最後の一片が消えるまで。
それから目を閉じる。
その瞼の裏に若く美しかった一頭の獣の姿を思い浮かべながら。
「忘れないよ。決して」
幼い声で紡がれる誓い。
目を開き、見つめる先にはもう何も残っていない。
右手に握った剣を見る。
刃こぼれして、ボロボロになった短剣。
それだけが、彼が確かに存在し、戦い、そして死んでいったのだという事の、唯一の証だった。
右手に持った剣を収めることもせず、その場に立ち尽くしていた。
傷ついて疲れていたがそのせいではなく、ただ心に広がる悲しみが、小さな体をそこに縫い付けていた。
後ろから足音が聞こえてくる。
二種類の足音。
軽やかに駆けてくる音は、さっきの女性のものだろう。
その後ろを追うように、もう一つの少し重めな足音が追いかけてくる。
それに気がついても雷砂は動かない。凍りついたように。
足音は少しずつスピードを緩め―雷砂の前でその音を止めた。
ふわりと広がる花のような香り。頬に触れる柔らかな掌の感触。
見開いたまま、何も景色を写していなかった瞳に徐々に光が戻り、地面に膝を着いて心配そうにこちらを覗き込んでいる女性の姿を映し出した。
彼女は両手を伸ばし、雷砂の頬を包み込むように触れていた。
伝わるぬくもりが気持ちよくて、張り詰めた表情がかすかに緩んだ。
「大丈夫?痛そうな顔をしてるわ」
そう言われて、雷砂は首を傾げる。
全身に大小様々な傷はあるが、然程痛くは無い。
元々痛みには強いほうだし、行動に支障が出るほどの傷は受けなかった。
放っておいても2、3日で綺麗に直ってしまう、そんな些細な傷だ。
「大した怪我じゃない。大丈夫。痛くないよ」
目の前の女性を安心させたい一心で微笑んでみせる。
でも、彼女の心配そうな顔は晴れない。
「なら、どこが痛いの?」
その問いかけに自問する。
どこが痛いのか?体は痛くない。深刻な打撃は一切受けなかったのだから。
なら、どこが痛むのだろう?目の前の人をこれほど心配させるほどの痛みを、自分はどこに受けたのだろうか。
そんな事を考えながら、ふっと右手に目をやった。握ったままの短剣。
その剣にも、右手にも、あの獣を貫き浴びたはずの血は一滴たりとも残っていない。
彼の存在が消滅すると共に、その体液も大気に溶けて消えてしまった。もうどこにも彼の痕跡は無い。その事を思うと、胸がー。
あぁ……かすかな吐息と共に思い至る。
どこが痛むのかーその問いかけに対する答えは唯一つ。
「……心」
搾り出すように言葉を紡いだ瞬間、瞳から熱い何かが溢れた。
それを拭うように女性の掌がそっと動き、それからいたわる様に雷砂の体を優しく抱きしめた。
体全体を包み込むような暖かさが心地よくて、雷砂はそっと目を閉じた。その耳に、柔らかな声が降ってくる。
「あの黒い大きな子、君の友達だったの?」
「違う。でも一度だけ会った事がある。まだ若くて、やんちゃで、怖いもの知らずで……精一杯、楽しそうに生きてた」
「そう……」
背中に回された腕に力が込められ、
「ごめんね」
と彼女の声が届く。戦わせてしまってごめん、と。
雷砂は首をふる。彼女が謝る必要など無いのだと。
戦う事を選んだのは自分。守りたいと思ったのも自分。誰かがそうしなければならなかった。
たとえ、自分以外の誰かが、あの獣を倒してくれると言ったとしても譲りはしなかっただろう。彼を知る者として。
自分の手で送ってやれて良かったのだ。心からそう思っている。ただ、悲しさだけが消えない。
その想いから浮上するのには少しだけ時間が必要だった。
小さな手が、縋り付くようにしがみついてくるのを、セイラは感じた。
彼女は黙ったまま、再び小さな背中に回した手に力を入れる。
そうしてしっかりと抱きしめて、そっとささやく。
「君の涙が止まるまでこうさせていて。しっかり泣いたほうが、きっとすっきりするから」
雷砂は、彼女の腕の中から抜け出そうとはしなかった。それを答えと受け取って、セイラは優しく雷砂の背を撫でる。
その優しい感触に、強張った身体からゆっくりと余分な力が抜けていく。
そうして彼女のぬくもりに身を預け、ほっと息をついた時、
「ありがとう、助けてくれて。あなたのおかげで、私、今もこうして生きていられる。あなたが、助けに駆けつけてくれたおかげで……。本当に、ありがとう」
耳に響いた吐息のような感謝の言葉。
その言葉は彼女の腕と同様に、優しく雷砂の心の痛みを包みこんでくれた。
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